プリック・プロック・・・ プリック・プロック・・・煌めくような青空の日曜日。
マロニエの丸く青い実が若葉の影で少しづつ膨らんでいく、そんな森の広場で、今日もクリケットの試合が行われている。
船の櫂(かい)のような形のラケットに臙脂色の皮のボールが当たると、一種独特で至極長閑（のどか）な、まさにプリック・プロックと表現するに相応(ふさわ)しい音が、大気にこだまする。
比較的裕福な家の人たちが好む、イギリスの伝統的なスポーツ、クリケット。
白い上下のユニフォームで、午後のひと時、試合を中断して木陰でお茶を楽しんだりする優雅なスポーツだ。
プリック・プロック・・・プリック・プロック・・・花の香りに満ちた運動場から湧き上がる歓声。
それは22才の若き教師チップスが、はじめてブルックフィールド校の門をくぐった時に聞いた、明るい7月の声音（こわね）だった。
あれから63年、チップスは今、初冬の夕暮れ、暖炉の前の椅子に腰掛け、長い、しかし夢のように過ぎ去った自分の人生を回顧する。
薪の燃える暖かさと火の明るさとが、老教師チップスを安らかなまどろみに誘い、時間は静かな雪のように降り積もっていく。
小説『Good-bye,MR.Chips・チップス先生さようなら』は、イギリスの私立の全寮制男子校ブルックフィールドで、60年以上にわたって教鞭をとったチップスの、平凡だが誠実な、地味だが誇り高い人生を描いた作品だ。
チップスは、長い間、真面目一途な、ラテン語と歴史古典を教える教師だった。
そしてやっと48歳の時、25歳のキャサリンと出会い結婚する。
キャサリンは、若く進歩的な女性であったが、年の離れたチップスを尊敬し深い真心を持って彼を愛していた。
彼女は教師という職業の素晴らしさを彼に語りかけ、自分も生徒になったような気持ちだと打ち明けて、彼のことをはじめてチップス先生と呼ぶ。
結婚式の前日の夜、雨に濡れた街灯の下で、生真面目すぎるチップスを優しくからかうように「チップス先生 さようなら」と彼女は言う。
その時の可愛い面影と心に沁みるその残像を、彼は1枚の絵のように生涯大切に心の壁に飾っておくのだ。
結婚とともにチップスの人柄は深みを増し、生徒達から心底愛されるしゃれの上手な教師となる。
キャサリンは彼の人生に眩いばかりの光を投げかけ、彼に物事の真実を見つめさせた。
彼女の提案で、ブルックフィールド校の生徒たちが、イーストエンドの貧しい少年達とサッカーの試合をする場面はとても印象的だ。
偏見や旧弊なしきたりを打ち破って、彼女は強くたくましかった。
けれども、その明るく聡明な妻は結婚して2年あまりで、生まれてきた赤ん坊とともに突然この世を去ってしまうのだ。
4月1日、エイプリル・フールのその日に・・・
作者ジェイムス・ヒルトンは、1900年マンチェスター近くのリーで生まれ、1954年にカリフォルニアのロングビーチでこの世を去った。1934年に発表された『チップス先生 さようなら』は、「ブリティッシュ・ウイークリー」に発表され大人気となり、1938年には舞台に、さらに1939年とヒルトン亡き後の1969年に映画化され一世を風靡した。
この中編小説は、作者の出身校リース校をモデルにして書かれているという。
ヒルトンはハリウッドに招かれて、そこでシナリオライターとして活躍した。
また『失われた地平線』というユートピア小説で、アジアの奥地チベットを舞台にシャングリ・ラという理想郷を描いている。
さらに『鎧なき騎士』や、1932年に書かれた生涯唯一のミステリー『学校の殺人』などの作品がある。
ロンドンの北、エッピング・フォレストに隣接した住宅地、オークヒル・ガーデンズ。
その42番地の壁には青い版(ブルー・プレーク)が嵌っていて、ジェイムス・ヒルトンがここに住んだと記されている。
現在も人が住んでおり、玄関先のハンギング・バスケットに、黄色い夏花が咲き零れている。
緑の森は7月の熱気のなかに鬱蒼と静まり、陽の届かない森の奥には、何百年も昔から住み続ける森の精が息を潜めているかのようだ。
今は森の周囲は開けて、ホテルや商店なども多いけれど、ヒルトンが暮らしていた時代は本当に草深い所だったのだろう。
静かな道に佇んで、様々なことを思いながらその白壁の家を眺めていたら、突然激しい雨がやって来た。
やがて第一次世界大戦が始まり、チップスは、教え子達が次々と戦死するのを悲痛な思いで受け止める。
戦後、ヨーロッパばかりか世界中が次第に不穏な空気に包まれはじめるなか、ただひとりイギリスだけが正気だとチップスは思うのだ。
尊厳さと寛大さを備えたバランスのとれた感覚を持つこと、それこそが品位である、それこそがイギリスであるというヒルトンの思いが伝わってくる。
臨終のベッドの上で、チップスは、若くしてこの世を去った美しい妻の姿を思い浮かべ、そして彼の人生そのものであったブルックフィールド校の懐かしい鐘の音をきく。
夢の中でチップスは思う。
この最期の瞬間に、私の愛する何百何千もの子供達がみな、私のところに集まって来る。
そして男の子達は昔のままの幼な顔でこう言うのだ。
「Good-bye,MR.Chips・・・チップス先生 さようなら」
今年の夏休みは、レイク・ディストリクト（湖水地方）の、グレイト・ゲイブル山にハイキングに行くことに決めた。
そこは、チップスとキャサリンが初めて出会った場所だ。
昨日の土曜日、我が家から近いリッチモンドの本屋へ行って湖水地方のハイキングの案内書を買ってきた。
グレイト・ゲイブル山にはイギリスには珍しい岩場があり、岩登りを楽しむ人たちで賑わうという。
かのワーズワースの友人コールリッジも、岩登りの先駆者であったらしい。
ワーズワースは歩き、コールリッジは登った・・・そして2人は美しい詩を詠った。
私達は、ワスト・ウォーターのほとり、チップスが滞在していたウォズデイルに宿をとって、足をくじいたチップスを見舞うために、キャサリンが自転車で通った湖畔の道を、歩いてみようと思う。
湖畔の風は、チップスの生涯の心の支えとなって輝き続けた、夏の光のようなキャサリンの面影を私に伝えてくれるだろうか。
そして、チップスの喜びに満ちた教師人生と、物語の中の純愛を、美しい湖水地方の自然の中で感じることができたら、とても嬉しいと思うのだが・・・
＊ 湖水地方は、ロンドンの北東約450ｋｍ。
＊ 写真1,2は、ロンドン、エッピング・フォレストのヒルトンの家。
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作：ジェイムス・ヒルトン
