昨晩は、夜半(よわ)の嵐が吹き荒れた。
きららかな夏日を吹き飛ばすような突然の風雨に、庭の真っ赤なダリアが地面に倒され、捨てられた花束のように哀れな姿を曝している。
黒雲がゆっくりと綿雲を抱き込み、ちぎれて散らばりながら空を覆い始めた。
まるでルーシーがセシルに婚約解消を告げた翌朝のようだ。
夏は我々に背を向け、もう振り返りもしない。
E・M・フォースターの『A Room with a View・眺めのいい部屋』は、裕福な家の子女ルーシーが、イタリア旅行での様々な体験から自我に目覚め、イギリスに帰国後、フィレンツェで出会った下層階級のジョージと結ばれるという物語だ。
時代はこの小説が書かれた20世紀初頭。
作者のイタリア旅行(1901年から1902年にかけて)がきっかけとなって書き始められ、1908年に発表された。
フィレンツェのペンションでルーシーと従姉妹のシャーロットが、眺めの悪い部屋を与えられたと文句をいっているのを聞いたエマースンとジョージ父子が、自分たちの眺めの良い部屋と取り替える申し出をするところから、物語は始まる。
数日後、夕暮れのシニョリーア広場で人が殺されるのを見て気を失ったルーシーは、偶然居合わせたジョージに助けられる。
ルーシーはその時、彼もまた、本当は動揺し我を忘れていたということに気付く。
今まで出会った男性とは異なり、自分の心に正直で生きることに真摯なジョージに、ルーシーは無意識に惹かれていく。
男性も女性と同じように、動揺したり怖がったり傷ついたりするのだという発見。
男とは、女とは、愛とは・・・そして生きるということは・・・ルーシーはそれらをしっかりと「眺め」そして「思考」しはじめる。
そもそもこの小説に於いて「眺める」とはいったいどういうことだろうか。
それは「広い視野を持つ」ということではないかと思う。
ルーシーは、帰国後に婚約した上流階級の青年セシルを、眺めのない「部屋の中」のイメージとして捉える。
どんなに美しく気品があり、どんなに学問や教養があっても、しょせんセシルは「部屋の中」の人だったのだ。
「眺める」などということは、旧弊な上流社会の人々にとってはむしろ品位のないことだったのかもしれない。
けれども、人は見ることによって思考する。
物理的に「眺める」ことから、より深い思考へと・・・思考するためにスケッチをしたというラスキンのことを思う。
この小説の中で最も美しく忘れがたいのは、フィレンツェ郊外のアルノ渓谷の岡の斜面で、ルーシーがはじめてジョージの愛を受けとめる場面だ。
｢スミレが川となり滝となって斜面をなだれ落ちている。木々の根のあたりで渦巻き、くぼ地では池となり、芝草のあちこちを紫紺の泡で飾った」・・・ルーシーがいる場所から湧き出るように咲き零れるスミレ・・・そこは美の泉であり、ジョージのキスを受けたルーシーは美の女神のように「スミレがあおい波となって白いドレスの裾をあらう」中に佇んでいる。
E・M・フォースターは1879年にロンドンで生まれ、1970年に90歳でこの世を去った。
父親は建築家であったが、フォースターが幼い時に亡くなり、彼は母親の手によって育てられた。
トンブリッジ・スクールからケンブリッジのキングス・カレッジに進む。
フォースターは、知的で自由な芸術を目指した文学サークル、ブルームズベリー・グループの一員でもあった。
彼は、『ハワーズ・エンド』や『インドへの道』などの小説の他に、評論、短編集、紀行文や伝記など、多くの著作を残している。
物語の中に登場するタンブリッジ・ウエルズに向かって、車を走らせる。
丘陵の崖ふちに沿って、翻(ひるがえ)るリボンのように続く道を行けば、色づき始めた木の間越しにザ・ウィールドの森が、走馬灯のように現れては消える。
フォースターはイタリア旅行でその素晴らしさに感銘を受けるが、それと同時に少年時代を過したこの地方の美しい風景に回帰したのではないだろうか。
物語の中でルーシーは幾度となく心につぶやく。
・・・「ああ、ウィールドの森はなんと美しいのだろう」・・・
ルーシーは、ウィールドの眺めをトスカーナやカラーラに見立てて、
「自分なりのイタリアを忘れかけているけれど、自分なりのイギリスを知りつつある」と思うのだ。
タンブリッジ・ウエルズは、静かな美しい地方都市だ。
道幅は広く、瀟洒なヴィクトリア調の町並みが続く。
家々の屋根の間を鳩が舞う。
夏から秋へ・・・深い季節の谷間の上を、一羽、そしてまた一羽・・・
やがて鳩は仲間をよび、群れをなして一斉に高みへと舞い上がった。
タンブリッジ・ウエルズに住む、年上で独身の従姉妹シャーロットは、ルーシーのイタリア旅行に同行する。
彼女は、気難しく口うるさくおせっかいだ。
数々の心無い仕打ちに年若いルーシーは腹を立て、彼女を疎ましく思う。
しかし物語の最後に、彼女はその不器用さの影にあるシャーロットの本当の優しさに気付き始めるのだ。
先日、ロンドン郊外のアンティーク・マーケットで、偶然古いタンブリッジ・ウエルズの絵葉書を見つけた。
裏には1906年８月６日の消印がある。
タンブリッジ・ウエルズの住人が、近隣に住む母親に近況を記して宛てた１枚の絵葉書だ。
古色蒼然としたカラープリントは、当時の町の様子を映し出している。
並木に沿って美しい建物が並び、石段の下の広場では、花を幾つも飾った帽子を被った女性が、車輪の大きな乳母車に手を添えている。
1906年といえばまさしくこの小説が書かれていた時代・・・小説に登場するシャーロットが住み、ルーシーが滞在した町だ。
私はその絵葉書の中に静かに身を置いてみる。
すると曲りくねったなだらかな坂道の上から、ルーシーとシャーロットがふと現れるような、そんな不思議な錯覚に陥った。
100年前のタンブリッジ・ウエルズ・・・石畳をやってくる馬車の音が近づいてくる・・・時刻を告げる店先の時計、赤ん坊の泣き声・・・風、花のかおり・・・
＊タンブリッジ・ウエルズはロンドンの南東50km。
＊写真1は、ドーキング近く(ルーシーが住んでいたとされる)から、タンブリッジ・ウエルズ方面を見る。
＊写真2は、1906年の消印のあるタンブリッジ・ウエルズの絵葉書。
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作：E.M.フォースター
訳：西崎憲/中島朋子
