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 今朝は、静かな雨が降っている。
私は、『説きふせられて』を、膝の上に広げたまま、先ほどから濡れた庭の木々を眺めている。
雨が乾いた地面を潤すように、読み返すたびに深く心に沁みてくるジェーン・オースティンの小説。
ジェーン・オースティンが、私の心に、霧のような優しい小ぬか雨を降らせる。
・・・世の中は、人間は、実はこうなのだと、少しずつ根気よく諭すように・・・雨は静かに降り続ける。

 日本では『説きふせられて』と訳されている『Persuasion(説得)』という題名の小説は、1818年作者の死後、匿名で出版された。
サマーセット州のケリンチ邸の当主、准男爵のエリオット卿には、エリザベス、アン、メアリーの3人の娘がいた。
物語はアンを主人公に、ウェントワース大佐との8年越しの恋を実らせて、ついに結婚するというハッピーエンドで締めくくられる。
 物語の舞台は、ケリンチ邸からメアリーの嫁ぎ先のアッパークロス、さらにライム・リージス、そしてバースへと移る。
季節は秋から晩秋そして冬・・・これが、彼女の生涯最後の長編小説だ。

 ウェントワースは、ケリンチ邸を借りることになった姉夫妻の関係から、8年ぶりにアンと再会する。
8年前に、彼には身分も財産もないと他人に説きふせられて、自分との婚約を解消し自分を傷つけたアン・・・それもひとえに彼女の弱さと臆病のせいだと思うと、彼は彼女を許すことができなかった。
 しかしライム・リージスの朝日の中で彼女の美しさを再確認し、再び素直な恋心を抱いてから、ウェントワースの態度は変わっていく。
その後に起きたルイーザの事故の際には、彼はうろたえてアンに助けを求め、アンの指図を待とうとする。
あれだけアンの優柔不断を責めておきながら、再び自分の想いに気付いた後は、もうすっかり彼女に追従している様子がありありと描かれている。
ウェントワースの変わらぬ気持ちを確信したアンは、バースの宿で、彼が聞いているかもしれないと思いながら他の男性に話しかける。
女は愛する対象や希望がなくなってもいつまでも愛してゆけるものだ・・・と。
 彼女は、彼がその言葉を聴きながらその場で書いた手紙を受け取り、2人は幸福な和解をする。

 ジェーン・オースティンは、1775年、南イングランドのスティーヴントンで生まれた。
1801年に、両親と姉と一緒にバースに転居する。この小説に出てくるライム・リージスにも数回出かけたことがあるようだ。
彼女は両親や兄弟に恵まれ(5人の兄と弟1人、姉が1人の8人兄弟の7番目)、幸せな家庭に育った。
特に姉のカサンドラとは、信頼し合い心を許し合う仲の良い姉妹だった。
バースで父親を亡くしたジェーンは、サザンプトン、さらにチョートンに移り住み、1817年、治療のために滞在したウィンチェスターでこの世を去った。
生涯独身の、41年の人生だった。

 ジェーン・オースティンの小説は、人物を細かく描き出す細密画のような文章で満たされている。
漱石のジェーン・オースティン礼賛は有名だが、様々な難しい事を抜きにしても、その「写実」が俳人でもあった漱石の好みだったのだろう。

 この小説の背景には、1796年に始まり1815年に終ったナポレオン戦争がある。
1804年に皇帝になったナポレオンは、本格的にイギリスと戦争状態に入り、1805年には、トラファルガー海戦でネルソンの率いるイギリス艦隊に大敗する。
そんな状況の中、1806年のサント・ドミンゴ海戦で功績のあったウェントワースとまだ19歳だったアンが初めて出会ったのが、その年の夏だった。
それから8年後1814年9月から翌年1815年6月にかけて、フランス革命とナポレオン戦争の戦後処理のため、ウィーン会議が開かれる。
ウィーン会議が始まった1814年の秋に、アンは、海軍大佐になって帰国したウェントワースと再び会うという設定だ。
ジェーンの兄弟たちが海軍の軍人だったこともあり、祖国イギリスを守った軍人に対して、ジェーンは好意的だ。
物語の中でアンが言う。
私たちのために働いてくれた海軍の人は、どんな恩恵も受けて良いはずだ、誰がみても、安楽に暮らしてよいだけの働きをしたのだから・・・と。

 冬のバースは人々の混雑と熱気だけでも、暖かく感じられるほどだ。
古くはローマ時代の温泉場として栄え、18世紀には再び鉱泉ブームで栄えた。
そして現在のイギリスでも、最も有名な観光地のひとつだ。
バースはこの物語の中で、アンが父と姉とともに移り住む町、そして実際のジェーン・オースティンも、両親と姉とともに移り住んだ町だ。
イングランドの北に吹き荒れる木枯らしを避けて、人々は暖かなバースへとやってくる。
ローマの遺跡や、華やかな社交場となったパンプルームなどのある中心街から、曲りくねった石畳の坂道を上ると、半円形の建物ロイヤル・クレセントが見えてくる。裕福な人々がシーズンごとに借りて住んでいた家だ。
ジェーンの家族もこのような家に住んでいたのだろうかと思わせる一軒が、博物館になっている。
町にはジェーン・オースティンセンターがあり、ジェーン縁(ゆかり)の場所を歩くツアーも出ている。
 物語の中の2人は、バースの静かな坂道を上りながら、今までの誤解を解き、はっきりとお互いの想いを確かめ合う。
何といっても最も美しい、印象的な場面だ。
けれども、バース・冬・爪先上がりの坂道という背景のせいなのか、そして作者の病が深刻になりつつあるのを感じるためなのか、何だか少し息切れするような気だるさが漂っているように感じられる。

 小さな片田舎の村で限られた人々と静かに暮らしていたジェーン・オースティン。
彼女が、周囲の人々が持ち込んでくる話題にじっと耳を傾け、それを話す人々に真摯な眼差しを注いでいる姿が、目に浮かぶような気がする。
あたかも、昆虫たちの運んだ花粉によって美しい花が実を結ぶように、それらは珠玉の小説となって結実した。

*バースはロンドンの東、約200km
*ライム・リージスはロンドンの東南、約250km
*写真1は、バースのローマ時代からの温泉場
*写真2は、ジェーン・オースティン・センターのパンフレット

本の紹介説きふせられて
原題:PERSUASION
作:ジェーン・オースティン
訳:富田 彬
岩波書店
粗筋:周囲からの説得に自らの愛を眠らせ、婚約者と別れたアン。
8年という歳月が流れた後、再びめぐり合う2人の物語。…丁寧な筆致で人生を彫り込み、美しい南イングランドの自然を背景に繊細な愛の物語を綴る。作家ジェーン・オースティンの遺作に当たる本作は、死後、匿名によって出版された。

2005.02.03掲載
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