美しさ・・それを感じる余裕などない程の美しさ・・とでも言うのでしょうか。
アルハンブラ宮殿に一歩足を踏み入れた時に目を奪われた、繊細で優美な石膏細工(せっこうざいく)は、あえて言えばあまりにも美しすぎるために、息苦しく眩暈(めまい)を催すような錯覚に陥(おちい)ってしまうほどでした。
それはダマスカスで発祥しモロッコで完成された、スタッコ細工と呼ばれるサラセンの装飾技術のたまものなのです。
20年前の元旦、2歳と4歳の子供達の手をひいて、私達はマラガからバスでグラナダへ入りました。 何時間もバスにゆられ、山を越えて、やがて遠くに白壁の家々が立ち並ぶアルバイシンの丘が見えた時、私達はすでにアラビアン・ナイトの世界をさまよう旅人でした。
入り口の門を堅く閉ざして静まり返ったアルハンブラ宮殿は、夕日に照らされた赤い壁を連ねて、寒風吹きすさぶグラナダの丘の上に聳えていました。
翌朝早く宮殿に入った私達は、冷たい手をオーバーのポケットの中で握りしめながら、ワシントン・アービングの『アルハンブラ物語』そのものの世界に、眼を見張る思いでした。
深い雪に埋もれたネバダ山脈の水を吹き上げるライオンのパティオの噴水の周りに、うす桃色の大理石の列柱が、張り詰めた寒気の中に佇んでいました。
あたりに人影はなく、私達家族の足音とそれを消してしまうような水音だけが、アラベスク模様の壁に響いていました。
回らない舌で、石のライオンをスペイン語で数える次男。 何回数えても、11頭しかいないという次男に、1から12まで数えて、ほら12頭いるよ、と言う長男。
王のための浴場には、天井に星型の明り取りがあり、ワシントン・アービングが滞在していた部屋には、しっかりとドアに鍵がおろされていました。
コマレスの塔の窓から、はるかに見下ろすグラナダの町は、厚く層をなした朝もやに覆われ、新年の鐘の音が、まるで白く泡立つ大海の底から湧き出るように響いていました。
やがて、凍てついたアラネヤスの庭に、さっと朝日が射し込んで、噴水の水がキラキラと輝きはじめました。 40分程するうちに、1人、2人と人が増えてきて、私達が出口へ向かう頃には、大きな観光バスから沢山の人々が降りてきて、あちらこちらでガイドの話す声が響き始めました。
『アルハンブラ物語』を書いたワシントン・アービングは1783年、ニューヨークで生まれ、1859年にこの世を去りました。 『アルハンブラ物語』は公使館書記としてスペインに赴いていた作者が、アルハンブラに滞在した日々を、様々な伝説とそこに住むアンダルシアの人々の生活を織り交ぜて描いたものです。
1832年に書かれ一世を風靡(ふうび)し、1851年に書き直され、倍以上の量となって再び出版されました。
私は、アルハンブラ宮殿を初めて見た時から、その虜になってしまい、あまりに魅せられてしまったがために、ワシントン・アービングが、月光に照らされた庭を何時間も窓辺に座って眺めていた事や、真夜中の宮殿を様々な思いにとらわれながら歩き回ったという事などに、嫉妬してしまうほどでした。
一回で良いから夜のアルハンブラを見てみたい、とずっと思い続けていました。 古色蒼然(こしょくそうぜん)とした宮殿が、ひと筋の月光を浴びると、一瞬にして豪華絢爛(ごうかけんらん)たるモーロの宮廷に変わってしまうかも知れないのです。
伝説の夢物語の中の小さなサンチカは、聖ヨハネの宵祭りに拾った「魔除けの黒玉の手」を身に付けて、洞窟から現れたモーロの煌(きら)びやかな行列について行きます。
そして、魔法にかけられた王女から、モーロの財宝の隠し場所を教えられ、自分のためにミサをあげて欲しいと頼まれます。 心正しいサンチカは、王女との約束を果たし、やがて大金持ちになって幸せな結婚をするのです。
他にも、深夜アルハンブラの丘やグラナダの町を、6匹の犬に追い立てられて疾走するという、7階の塔に住む首のない馬の亡霊「ベリュードの話」や、ラス・インファンタスの塔に閉じ込められていた3人の美しい王女、サイーダ、ソライダ、ソラハイダ、さらに不幸なソラハイダの銀のリュートに絡む「アルハンブラの薔薇の伝説」など、様々な物語が濃い紫色の煙のようにアルハンブラを包んで、長い間現実の世界の私との次元を隔てていたのでした。
先日、実に20年ぶりにグラナダへ行く機会を得て、ついに、夜のアルハンブラ宮殿に入る事ができました。 庭園の糸杉の並木の上に広がる満天の星が、遠いアルバイシンの灯火とまじり合う薄闇の狭間(はざま)から、乾いた微風が湧き起こり、漆黒の谷底に息を潜めるモーロの塔へと吹きおろしてきます。
私達は、伝説と魔法に絡め取られた夜の丘を歩いて、宮殿の中へと進みました。 ライオンのパティオやアラネヤスの庭は、満月程の薄明かりに照らされ、浮かび上がるように美しく、私は念願が叶ってとても幸せな気持ちでした。
けれども初めてアルハンブラを訪れた時から、私の心を捉(とら)えてはなさなかった魅惑的な幻想とは裏腹に、2001年の夜のグラナダは世界中から集まってきた観光客の明るく楽しげなざわめきに満ち溢れていました。
20年前、小さかった子供達は、成人して、我が家の歴史は大きく展開しました。
でも、このアルハンブラは、魔法にかけられたまま、ほんの一睡の時を過ごしただけなのでしょう。 |
