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 ホテルのテラスから見下ろす早朝の海岸は、犬を連れて散歩をする人の姿が、ポツリと見えるだけで、ゆったりとしたブルーグレイのうねりが打ち寄せるばかりだ。
昨日、101歳で亡くなったクイーン・マザーの喪に服した半旗が、微かな潮風に揺れている。
私は、遠い水平線から目を離し、左手の半島の斜面に美しい建物を連ね、薄布を被(かぶ)せたような春霞の下で、静かに息づいているトーキーの街を眺める。
・・・そこに、恋するアシャーストを捜し疲れて、じっと海を見つめて防波堤に凭れているミーガンの姿が、幻のように浮かんでくる。
孔雀色の帽子が煌き、潮風が黒いラシャのスカートを足に絡ませる。
頼りなげで痛々しく、そして謎めいて美しい。
その鮮やかな残像・・・それこそが見果てぬ夢、青春の墓標なのだ。

 物語は、妻と出会った思い出の地トーキーへ、銀婚式の記念旅行に訪れた、48歳のアシャーストの回想で始まる。
若きアシャーストは、旅の途中、トーキーに近いダートムーアの外れの農場で、妖精のような少女ミーガンと出会う。
足を傷めたアシャーストが2週間ほど滞在するうちに、2人は恋に落ちる。
満開の林檎の木の下で、熱にうかされたように2人は結婚の約束をする。
しかし、その時すでにアシャーストの心には、幽かな不安が影をさしていた。
駆け落ちの約束をしたアシャーストは、必要な品を買いにトーキーの街にやってくるが、そこで思いがけず友人のハリディに会う。
お茶に誘われたアシャーストは、懐かしさにほんの少しだけと思い、彼の滞在するホテルに行く。
そして、彼の3人の妹達と楽しく語らううちに、農場へ戻る時を逸してしまう。
彼らと共に時間を過ごしながら、生きていく事はいったい何なのか・・・どのように生きるのが自分に相応(ふさわ)しいのか・・・理性を取り戻したアシャーストは考える。

 その夜、ハリディのホテルに泊まることになったアシャーストは、トーキーの丘の上の半月型に並ぶホテルの庭で、ライラックの花が咲き零れるのを見ながら、ピアノの音と遠い海鳴りを聞いていた。
昨夜の自分はいったい何だったのだろう。
夜の果樹園があまりにも美しかったからか・・・深い闇の底から昇る月、夜目にも白い満開の林檎の花、梟の声、そして、小川のせせらぎ・・・美しい自然とミーガンに惹かれながら、やはり自分の生きてきた場所、これからも生きる場所はここだ、と彼は思う。

 駆け落ちを約束したミーガンとハリディの妹ステラは、共に17歳だった。
アシャーストは、純真な気高いステラを見ていると、見境いの無い情熱や野放図な欲望が、ばかばかしいものに思えてくるのだった。
アシャーストは、2日目の夜には、ミーガンに誓った言葉や自分の行動を、はっきりと後悔していた。
3日目には自己嫌悪に陥り、4日目の朝、馬車の中から、海岸通りに沿って駅へ曲がる道に、自分を捜すミーガンの姿を見つける。
彼は良心の呵責に耐えかねて、馬車を下りてミーガンの後を追おうとする。
トーキーの駅のあたりで、自分の心を持て余しながらミーガンを追い、また引き返す。
しかし海岸をさ迷い、疲れて立ち止まり、ぼんやりと海を眺めているミーガンに、アシャーストはついに声をかけることができなかった。けれども5日目には、自分の取った行動は正しかったのだと思い、ミーガンも数週間で忘れてしまうだろうと考える。
そしてその3日後に皆と一緒にロンドンに戻り、翌年4月の終わりに、ステラと結婚したのだった。

 銀婚式の日、偶然車を停め昼食をひろげた場所は、26年前ミーガンと初めて出会った場所であった。
アシャーストは懐かしくなり、この道を下って行くと、彼女の農園に行き当たるという思いにかられて、スケッチをする妻を残して、ひとりで丘を下りていく。
農場の門に立ち止まって、26年前と少しも変わっていない風景を眺める。
林檎の木、マスのいる河、ジプシーのゴーストの出る岩・・・そして、自分の青春は、いったい何処へ行ってしまったのだろう、と心に問うてみる。
思い出が人に出会って壊されてしまうのを恐れて、彼は丘の上に戻るが、そこで運転手と話していた農夫になにげなく、傍らの花の手向けられた緑色の盛り土は何かと聞くと、自殺した少女の墓だという。
林檎の木の下の小川の深みで、自らの命を絶った少女・・・思い出の林檎の木の下に埋めて欲しいという願いも聞き届けられず、自殺者として道野辺に葬られた少女・・・それこそは26年前、若きアシャーストが、ほんの出来心の恋で傷つけてしまったミーガンの墓だったのだ。

 『The Apple Tree・林檎の木』は第一次世界大戦中、1916年の作品である。
農場の古い林檎の木に咲く白い花・・・それは、美しくも儚い恋の象徴だ。
木の下には川が流れ、捨てられた少女はそこで入水(じゅすい)自殺する。
花、水、美しい乙女、恋、死・・・シェークスピアの時代、『ハムレット』のオフィーリアから、えんえんと受け継がれた一幅の「美」だ。
またこの物語は、あらゆる面で異なった2つの世界が、対照的に描かれている。
物語の前半は、ムーア(日本は、平野の果ては急峻な山岳地帯だが、イギリスはムーアと呼ばれるヒースの生い茂る荒地が続く)のはずれの農場が舞台、後半は、裕福な人々のための保養地として開けた、海辺の町トーキーが舞台である。
住む世界をお互いに決して越える事ができない・・・それは、イギリス社会に深く根づいた、階級意識のあらわれであろうか。
この作品の題名、黄金なる林檎の木は、ギリシャ悲劇、エウリピデスの『ヒッポリュトス』に見られるもので、人は黄金の林檎を夢見るが、それを手に入れる事はできない、すなわち理想郷は、現実には決して存在しないもの、という譬(たと)えだという。

地図  ジョン・ゴールズワージーは、1867年ロンドン近郊キングストン・ヒルで生まれた。
ハロー校からオックスフォード大学へ進み、20世紀初頭には、イギリス国家の矛盾に対する批判を含んだ、正義感に満ちた新劇の戯曲を書いた。
代表作には、3つの長篇と2つの挿話からなる『フォーサイト家物語』がある。
ゴールズワージーは、かつて従兄弟の妻であったエイダと結婚したが、彼女は病弱で神経質であったため、いつも転地療養に付き添っていたという。
晩年は、サセックスのベリー・ハウスとハムステッドのグローブ・ロッジを行き来し、1933年ハムステッドでこの世を去った。
死の前年ノーベル賞を受賞した。

 人影の疎(まば)らなトーキー駅・・・昔は、使用人を連れた長期滞在客が、沢山の荷物を持ってこの駅に降り立ったことだろう。
汽車が着くと、ポーターが飛び出してきて、忙しそうにホテルに荷物を運び込む・・・駅舎に停車した蒸気機関車の、シューッという音・・・フリルのついたドレスに、大きなリボン飾りの帽子を被った女の子・・・華奢(きゃしゃ)な手袋の手を掲(かか)げて、暖かな冬空を見上げる婦人・・・髭を生やし、ステッキで、ポーターに荷物の指図をしている父親・・・そんな過去の人々の姿が、見えるような気がする古い駅だ。
駅に隣接したトーキーグランドホテル・・・私達の部屋の並びには、アガサ・クリスティーが新婚旅行で泊まったという部屋がある。
ホテルは、トーキーが華やかだった時代を遠く過ぎて、今は僅(わず)かにその名残を、ヴィクトリア調の大きなダイニングルームと、海に面したラウンジにとどめている。
夕食後のラウンジ・・・ピアノを弾く若い女性の白い背中・・・どこからか、葉巻の匂い・・・いつの間に降り出したのか、大きな張り出しガラスが、霧吹きで噴いたように濡れている。
ミーガンの幻は、違う世界に住む人を恋した人魚姫のように、憐れで悲しい。
日暮れて、果てしなく暗い海の上に、暖かな春雨が音もなく降り続いている。


*トーキーは、ロンドンの南西約300キロ。


2002.04.22掲載
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