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 ムーア(荒地)は霧の海に漂う、人跡未踏の島影のようであった。
引いたかと見ると、また打ち寄せる音のない巨大な渦・・・波頭は、さながら白い炎のように燃え立ち、岸辺に舞い上がる。
その霧の奥に、こちらを凝視する2つの赤い目を、ふと、垣間見たような気がする。
風は、時折突風となって全てを吹き払うと、また鳴りをひそめる。
じっと耳を澄ませると、地鳴りのように高く低く、のたうつような不気味な叫び声が響いてくる。
それは、執拗にムーアの旧家バスカヴィル家を呪う、悪魔の叫び声にも似た、妖犬の遠吠えかもしれない。

シャーロック・ホームズの生みの親アーサー・コナン・ドイルは、1859年にエディンバラで生まれた。
エディンバラ大学の医科に学び、船医となった後開業したが、生活は苦しく、小説を書き始めた。
なかなか日の目を見なかった処女作『緋色の研究』も認められ、ホームズ物語は、その後56の短編と、4つの長篇の完成をみた。
コナン・ドイルは、他に科学小説や冒険小説なども書き、1930年にこの世を去った。

 『The Hound of The Baskervilles・バスカヴィル家の犬』は、1901年4月に、ダートムーアのプリンスタウンにあるダッチーホテル(現在は、インフォメーションセンターになっている)で執筆され、同じ年「ストランド」誌に連載された。
この小説は、多くのホームズ物語の中でも、非常に情景描写の素晴らしい作品だ。
石の古代遺跡が点在し、野生の馬が草を食むダートムーア・・・その寂しさやそこはかとない悲しさ、さらに言い知れぬ不気味さまでが、何故か詩的に美しく感じられるのは、私だけであろうか。
これは、推理小説というより、不思議な幻想小説のようだ。
犯人を捜して読み進むうちに、閉ざされたような雰囲気に圧倒されて、気が付けば、自分自身も霧の中に迷い込んでしまっている。

 バスカヴィル家に伝わる、妖犬の伝説とは・・・1600年代半ば、粗暴、残忍な領主、ヒューゴー・バスカヴィルは近隣の美しい女性を誘拐、監禁したが、酒宴の最中に逃げられた事に気付き、犬を連れて、1人で先に女性の後を追った。
しかし、他の者たちがムーアの谷に追いついた時、そこに見たものは、女性とヒューゴーの屍、そして、燃えるような目をして牙をむいた、世にも恐ろしい獰猛な人食い犬の姿だった。
以来、バスカヴィル家代々の人々の中に、非業の死を遂げる者が後を絶たず、それは妖犬に執り付かれ、呪われた故だと信じられてきた。

 その後数百年、祖先の犯した罪に怯えながら暮していた、老主人チャールズが、突然謎の死をとげた。
ホームズは、財産を受け継ぐべく新大陸から帰国した、若いヘンリーの友人から、老主人の死の調査を依頼される。
呪われたバスカヴィル家の、財産相続権にまつわる陰謀・・・そして、殺人。
館付近に、複雑に口を開けたグリンペンの大沼は、はまり込んだら最後、決して這い上がれない底無し沼だ。
その中のひとつの島に、巨大なハウンド(猟犬)を密かに飼いならし、相続権を持つ者を次々に襲わせようと企(たくら)む犯人。
犯人は、伝説に記された悪人ヒューゴーの肖像画に生き写しの、陰の血縁者だった。
そして物語の最後に、犯人の細工が明らかにされる。
それは、犬の顔にリンを塗り、発光させ、妖犬に仕立てることだった。
現代では、リンを塗られた犬が、それほど恐ろしいとは思えない。
しかし、当時の、想像を絶するほどの真の闇の中で、青白く燃え立つような巨大な犬に出会う事は、やはり、血も凍るような出来事であっただろう。
ましてや、呪われた家系の者であったなら、なおさらだ。
そしてまた、リンという薬品を使うという、科学の発達を思わせる当時の世上が察せられて、とても興味深い。

 イギリスでは、犬は多分に戦闘的な動物と感じられているようだ。
それは、犬と言えば猟犬という認識からきているのだろう。
荒涼としたムーアで、寂しげな風に吹かれて聞く犬の鳴き声は、サバンナで聞くライオンの声よりもさらに暗く、身の毛がよだつ恐ろしいものなのかもしれない。

 ベーカーストリート 221番地B・・・
世界中にこれほど有名な地番は、他にあるだろうか。
そこは、物語の中で、名探偵シャーロック・ホームズと、友人のワトソン医師が同居しているとされた家だ。
若緑色に芽吹いた街路樹が、ほんの少し春めいた町並みに色を添える朝、いつもは、遅くまで寝ているホームズが、きちんと身なりを整えて、依頼人が到着するのを待っている。
ホームズは、2階の窓からベーカーストリートを行き過ぎる馬車や、歩道を行きつ戻りつする人々を見下ろしながら、今から事件の依頼を持ってやって来る客の人物像を、ピタリと言い当てるのだ。
通りに面したベランダには、暖かな陽射しを浴びた色とりどりの花が咲き匂っている。
・・・ロンドンの中心地、ベーカーストリート・・・今も賑やかなその通りは、物語の舞台となった、100年前のロンドンの面影を残して、行き交う人や車で、早朝から深夜までざわめいている。



*ダートムーア(プリンスタウン)は、ロンドンの南西約350キロ。
*写真(1)は、プリンスタウンの旧ダッチーホテルのホームズ像。
*写真(2)は、ペンギンブックス、『バスカヴィル家の犬』


2002.05.27掲載
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