森に群生するブルーベルが、いっせいに花開く５月。
青紫の薄布を敷き詰めたような地面に佇んで、さらさらと揺れる若葉を見上げる。
風は至る所で幽かに湧き起こり、うつむいた釣鐘型の花々を震わせて通りすぎる。
するといっせいに、リリリッという小さな鈴の音が、さざ波となって耳の奥に響くようだ。
何度も繰り返し、リリリッ、リリリリリッと、鈴の音・・・私は、ブルーベルが咲くと、アガサ・クリスティーが書いた小さな童話を思い出す。
私にとってのアガサ・クリスティーは、ブルーベルの小さな妖精物語から始まるのだ。

　アガサ・クリスティーは、1890年にイギリス南部の保養地トーキーで生まれた。
1976年に85歳でこの世を去るまでに、100以上にも及ぶ作品を残した。
若い頃、音楽家をめざしてパリに留学したが挫折し、小説を書き始めたという。
エルキュール・ポアロやミス・マープルを創作したミステリー作家として世界的に有名だが、戦後は劇の脚本なども書いた。
1928年に最初の夫と離婚、その２年後に13歳年下の考古学者と再婚した。

　20世紀前半に起こった２つの世界大戦で、ヨーロッパの国々は疲弊した。
アガサ・クリスティーは、まさに、その時代を生きた人である。
21世紀に入り、当時を知る人々はますます少なくなった。
そして彼女ゆかりのホテルの多くは、無くなったり近代的に建て直されてしまった。
それでも、その時代そのままの姿で残っているホテルがある。
ここに挙げた３つのホテルは、当時の雰囲気を残して、時の流れの中洲に静かに留まっているかのようだ。

　そのひとつは、トーキー・グランド・ホテル。
彼女が新婚旅行で泊まったホテルだ。
216号室の白く塗られたドアに、アガサ・クリスティー・スウィートと書かれた金のプレートがはまっている。
イギリス南部の温暖な気候のこの町は、夏季は海水浴、冬季は保養地として栄えた町だ。
ホテルの壮麗な玄関はトーキー駅に面し、客室の窓は海に向かっている。
当時は汽車で着いた客が、長期滞在に必要な沢山の荷物を持って降り立ったことだろう。
汽車が着くとホテルのポーターが飛び出してきて、忙しそうに荷物を運び入れる姿が目に浮かぶようだ。
100年の時を経て、今夜は篠つく雨・・・ピアノの生演奏が流れ、葉巻の匂いがたち込めるラウンジでは、当時と変わらず、夕食後のお茶を楽しみながら、古い書棚から本を引き出して読んでいる人がいる。

　ホテルから歩いて坂道を登ると、ヘンリー８世に取り壊された修道院跡、トア・アビーがある。
今は、手入れの行き届いたギャラリーになっている。
その一角にアガサ・クリスティー・ルームがあり（注）、タイプライターや、愛用の身の回り品、原稿（手書きのプロットと、タイプで打って何度も直した原稿）、そして大学の名誉教授になった時に着たという、黒い式服などが飾ってあった。

　そして、トーキーに近いバー島にあるバー・アイランド・ホテル。
ヴィクトリア調の白壁のリゾートホテルだ。
バー島には、スマグラー（密輸業者）のゴーストが出るという、14世紀にできた古い船員宿ピルチャード・インもある。
島へは薄赤い砂地を歩いて渡る事ができるが、満潮の時は、彼女の小説にあるように、海水が上がって陸地から切り離されてしまうのだろうか。
頂上に上がって見ると良い眺めだ。
しかしホテルの裏手は恐ろしい絶壁で、そこだけがまるで別世界のように、不吉な感じがする。

アガサ・クリスティーはこのホテルで、『Ten Little Niggers・そして誰もいなくなった』と『Evil Under The Sun・白昼の悪魔』を書いたという。
島への招待客10人が、マザーグースの歌どおりに抹殺されていく『そして、誰もいなくなった』、そしてコーンウォルのバー島で起こった扼殺事件を、ポアロが解決する『白昼の悪魔』。
ともに、殺された者に対する哀れみと優しさが、作者の女性らしい感性を思わせる。

最後は、アガサ・クリスティーが『Murder on The Orient Express・オリエント急行殺人事件』を書いたという、イスタンブールのペラ・パラス・ホテルだ。
まだ橋のなかった時代、列車から下りた彼女は、船で湾を渡ってこのホテルへ向かったという。
緑色に塗られたアールデコの外観は古びているが、中に入るとその素晴らしさに目を見張る思いだ。
黒い鉄扉のエレベーター、そして家具もシャンデリアも殆どが当時のままだ。
天井の高い暗い廊下を曲がって、アガサ・クリスティーが滞在していたという411号室へ向かう。
ドアを入って左手にバスルーム、その先にツインのベッドが置かれ、右手のコーナーに彼女の写真や本が並べてある。
窓の外に広がる雨上りの町の風景・・・迫り来る夕闇の中で、モスクの尖塔に、そこだけライトを当てたように春の陽光が煌いた。
彼女もまた、このベランダからこの景色を見ていたのだ。
白い胸を夕日に赤く染めたカモメの群が、ボスフォラス海峡に向かって飛んで行く。
水色からトルコブルーに変わっていく空に、祈りの時を告げるコーランの声が吸い込まれていく。
紫色に霞むアジア側の半島、夕暮れの港の遠いざわめき、その名の響きさえも美しいイスタンブール・・・それは東洋と西洋の混沌、清浄と汚濁の、そして静寂と喧騒の混沌・・・

　アガサ・クリスティーは、その自伝の中で、探偵小説を書く喜びのひとつに、無実の人を救うということを記している。
大切なのは、加害者ではなく被害者だ。
世の中にはとうてい許しがたい犯罪者がいて、それは決して矯正などできないと彼女は断言している。
それなのに、犯人の若さに同情するのは何故か、そして、罪のない人のことを気にかけないのは何故か・・・そんな彼女の強い正義感、激しいまでの犠牲者に対する同情が、私の心を惹き付けてやまないのだ。



＊トーキー、バー島は、ロンドン南西、約300キロ。
＊写真(1)は、トーキー・グランド・ホテルの216号室。
＊写真(2)は、バー・アイランド・ホテル。
＊写真(3)は、ペラ・パラス・ホテルの411号室。
注：2005年現在修復中で、2008年に再開予定。