夕暮れ時の激しい風はおさまり、夜の浜辺には穏やかな波が打ち寄せている。
古城の廃墟のある岬の向こうから花火が上がっている。向こう側はサウスベイだ。
ここはスカーバラ、「サイモンとガーファンクル」の歌う古い民謡「スカボロ(スカーバラ)・フェア」で有名な、イギリス北部の海辺の保養地だ。
ホテルの窓から暗い海と岬を眺める・・・物語の中で、アグネスとウェストンが愛を確かめあう岬、そこにアンの墓があるという。

　翌朝、セント・メアリー教会の墓地にある、アン・ブロンテの墓に行く。
冬枯れの墓地の中、彼女の墓だけが秋の名残の花々に埋もれている。
彼女自身の才能によって、そして彼女の偉大な姉達によって、こうして他の墓と区別されていても、アンの人生は、他の人たちと同じように平凡で地味な人生だったに違いない。

　墓から古城の廃墟へと上っていく。
道は坂の上の門から岬の先端へと続いている。
その断崖の上に小さなチャペルがある。
半ば地面に埋もれ、あおい芝生が丸い小山を作っている古いチャペル、小説に書かれた教会だ。
敬虔なクリスチャンだったアンにとって、人々の争いの長い歴史を刻んだ城の廃墟ではなく、心の安らぎの場所、神の家である教会こそが、若い二人が愛を誓い合う場面にふさわしいと感じたのであろう。

　雷雨の後、ウェストンはアグネスを岬へと誘う。
こんな広い海に向かう断崖の上で、愛する人に結婚を申し込まれたら、これからの人生のどんな荒波をも渡っていく勇気が湧いてくるに違いないと、アンは思ったのだろうか。
ウェストンは、若くして死んだ初恋の相手、ウェイトマン副牧師の面影に似ているという。
・・・海風になびく芝生のなかに、濃いピンクのレンゲ草が、ぽつりと咲いている。

　アン・ブロンテは、1820年に生まれ1849年にこの世を去った。
アイルランド人の父パトリックとペンザンス出身の母マライアの、一番末の子供だった。
ソーントンにあるブロンテ姉妹(シャロット・エミリー・アン)が生まれた家は、茶色い石造りの２階建ての家だ。
アンは１歳の時に母を亡くし、ハワースの牧師館で父や伯母、兄や姉達とともに暮らしていた。
家庭教師などをしながら小説を書き始め、『アグネス・グレイ』は1847年、エミリーの『嵐が丘』との合本として出版された。

　『Agnes Grey・アグネス・グレイ』は、作者アン・ブロンテの心が直接伝わってくるような小説だ。
私小説とは異なり、アグネスはアンではないが、その純情な思いが、あまりにも作者の正直な心であるために、単調で薄倖のアンの生涯が思われて、胸がつまるようだ。
しかしアンは、夢を語っているだけではない。
冷静な小説家の目を持って、多くの事実をも語っているのだ。
それこそが小説家としての才能というものであろう。

　物語の前半は、アグネスが、金持ちの家で住み込みの家庭教師として働く様子を描いている。
当時の金持ちの子供達の我儘さや躾の悪さ、そして価値観の違いに、アグネスは傷つけられる。
そんな前半と対照的な、アンの夢が凝縮されている後半。
幼い日に亡くし顔も知らない母、26歳で死んだ初恋の副牧師、上手くいかなかった学校経営、すぐれない健康、それら過酷な現実は、アンの上に大きくのしかかっていたことだろう。
でも、物語の中では、夢はすべて叶えられ、主人公を含め、その回りの人々も、みな楽しく生き生きと幸福なのだ。
そしてアンの大好きな憧れの土地、海の美しいスカーバラで暮らしているのだ。
・・・私もまた、幸せな心で海岸を歩いてみよう。アグネスのように潮風に吹かれながら・・・

　サウスベイのグランド・ホテルの壁に、「アン・ブロンテ終焉の地」と書かれた版が嵌っている。
アンが最後の力を振り絞るようにして、ハワースから馬車や汽車を乗り継ぎ、スカーバラに向ったのは、1849年の晩春だった。
アンは、海が大好きだった。『アグネス・グレイ』の中にも「海は、私にとって喜びだった」とある。
海を見れば、生きる力が湧いてくると信じていたのだろうか。いや、アンは、海の見える場所で死にたかったのかもしれない。
姉シャーロットとその友人に見守られて、アンは僅か29歳の若さで、ここで永遠の眠りに就いた。
・・・静かな波音。まるでアンの魂を慰めるかのように、繰り返し浜辺に打ち寄せる・・・



＊スカーバラは、ロンドンの北約350km。
＊写真1は、スカーバラの城。(筆者スケッチ)
＊写真2は、アン・ブロンテの墓。
＊写真3は、グランドホテルの版。