庭に面した南向きのガラス戸が、大きく開け放たれて、板張りの床の上に、太陽の光がキラキラと降り注いでいました。縁先に脱ぎ散らされた、小さなつっかけや運動靴・・・部屋の中では何人かの子供達が、背中を丸めて一心に本を読んでいました。
　これが[びわの実文庫]・・・童話作家、坪田譲治が、鈴木三重吉の「赤い鳥」の後を受け継ぐ志を持ってつくった、童話季刊誌「びわの実学校」と同じ名前の、子供達のための小さな図書館なのです。

　昭和40年代初め、春浅い空の美しい日、まだ高校生だった私は、一生懸命に書き溜めた幾つかの童話を持って、目白の駅からほど近い坪田先生のお宅に訪ねて行ったのです。「あなたのお祖父様は、厳格な方だけれど、孫娘さんには甘いようですね。」
　坪田先生は私を見て、まず、そう言って微笑みました。２階の書斎の大きな机を前に、和服の上にチャンチャンコを着て座った坪田先生の姿は、小柄ながら、とても偉大に見えました。『善太と三平』を始めとする数々の名作を書き、民話の研究家としても著名な坪田先生に会って、私は感激で胸が一杯になりました。階下から時々聞こえる子供達の声・・・私にとって、何と特別美しい、早春の午後だった事でしょう。

　私が坪田譲治という名前を知ったのは、祖父の書庫にあった「びわの実学校」という童話雑誌からでした。私の祖父は、坪田譲治とは大学の同級生で、「びわの実学校」は祖父の学術誌(祖父は心理学者でした)と交換する形で、祖父の元に送られてきたものでした。
　小学生の私は、書棚の前に座りこんで、それを引き出しては繰り返し読みふけり、同じ所で笑い、そして泣き、感慨に耽りました。その時の床の硬さや冷たさ・・・やがて夕暮れがせまり、どこからか煙の匂いがして・・・こんな暗い所で読んでいると目を悪くしますよ、という祖母の声・・・そして私は、やっと現実に引き戻され、ゆっくりと書棚に雑誌を戻したものでした。
　寺村輝夫、あまんきみこ、特に私が一番好きだった宮川てる、など、沢山の童話作家の小さな作品の集まりは、夜空の星のように、ひとつひとつが様々な色に輝いて、少女の私を夢中にさせました。いつか私も、素敵な童話を書きたい・・・そんな思いで祖父に取り次いでもらい、こうして会いにきたのでした。

　坪田先生はとても穏やかな方で、ゆったりとした口調で、祖父との思い出話をしてくれました。学生時代、皆で食事をする事になって、祖父が、今夜は自分が魚を焼くからと七輪の前に座り、火の番を引き受けたにも関わらず、その時読み始めた本に夢中になってしまい、魚を真っ黒に焦がしてしまったというものでした。
　「・・・お祖父様も大いに困ったのですが、仕方なくご飯だけで夕飯を済ませました。本当に学問の好きな方です。」と笑っていました。(帰って祖父に話すとやはり笑って、そんなことがあった、と言っていました)そして、私の持って行った童話を全部読んで、その中のひとつ、「赤い靴」という小編を、「これを「びわの実学校」に載せましょう。」と言ってくれたのです。
　帰り際に、『びわの実学校名作選』という立派な本の表紙に一編の詩を書いて下さいました。「子供は　咲く花・・・」から始まる、優しい、心暖まる詩でした。

　その後、坪田先生には2回程会ったでしょうか。数ヵ月後に、美しい挿絵と共に、私の書いた童話が「びわの実学校」に載りました。今のように、誰でもが本を書き、そして書いた物がすぐに活字になる時代ではありませんでした。活字になって印刷される、ということは、本当に大変な事だったのです。私の元へ送られてきた雑誌を、初めて開いた時の感激を、今でも忘れる事ができません。
　けれども、その後大学生になった私は、すっかり青春を謳歌してしまい、童話を書くという、地味な努力を必要とする志を忘れてしまいました。

　祖父が亡くなり、それからすぐ、坪田先生も亡くなり、平成6年の初めに「びわの実学校」も廃刊になりました。童話自体の趣向もかわり、子供の生活も、昔とは全く違ってしまいました。欲しいものは何でも手に入る時代・・・子供は、昔の子供達のような、ささやかでも子供らしい素朴な夢を見なくなってしまったのかもしれません。

　今は唯、坪田先生が、表紙に詩を書いて下さった『びわの実学校名作選』と、初めて活字になった私の『赤い靴』、そして先生から、原稿料の代わりとして頂いた、私の旧姓が刻まれたパーカーの万年筆だけが、思い出の形見となってしまいました。